「私たちが「学習」を苦手とする理由」の記事を読みました。他にも何かあれば教えてください! | |
「興味と経験」こそが学びを可能にするいう考え方があります。 「人は強い興味と豊富な経験を持てば持つほど、よく学習できるようになる」という言葉の意味を自分に当てはめて考えてみると、尚よろしいでしょう。 |
という考え方のことを、学習に関するオフィシャル理論といいます。
このように「学習=強制」という発想を前提とする限り、学習に対する苦手意識はなくなりません。
こうした状態から抜け出すためには、「好きなときに好きなだけ学ぶ」という自由な発想で取り組むようにすることが効果的です。
そして、実は、私たち人間は、古い時代にはそうした自由な学ぶ方を実践していました。
認知心理学者のフランク・スミスは学習のオフィシャル理論が広まる前に
人間社会にもともと存在した学習の考え方を「クラシック」な観点と呼んでいます。
これを簡単に「クラシック理論」と呼ぶことにしましょう。
クラシック理論によれば「興味と経験」こそが学びを可能にするとされます。
つまり、人は強い興味と豊富な経験を持てば持つほど、よく学習できるようになるという考え方です。
今になって思えば、とても自然で合理的な考え方ですが、100年前の人々はそうは思わなかったのです。
なぜなら「興味と経験」という要素は大変個性的な要素なので
「興味と経験」を問題にする限り、均質的で標準的な人材を効率的に作り出すことはできなかったからです。
しかし、時代は変わりました。現代社会で必要とされる人材の中心はもはや均質的で標準的な工場労働者ではありません。
むしろ、高度な思考力や豊かな想像力に優れた個性的な人材こそがより必要とされるようになっています。
この点に関しては、フランク・スミスだけでなくMITメディアラボ所長である伊藤穰一氏も同様のことを述べています。
「現代は、同じ行為を正確に繰り返すよりも、独創性を発揮したり、
イノベーションを起こしたりすることが重要だと喧伝されています。
しかし、日本の教育や企業の人事評価などを見ると、いまだに大量生産型のシステムから脱皮できてはいません。
これは私の仮説ですが、いまの子どもたちは、現代社会には向いていない教育を与えられているのではないでしょうか。
実はそこに、日本人が抱えている様々な問題の根っこがあるように思うのです。」
(逸脱からはじまる「学び」の実践 伊藤穰一(MITメディアラボ所長)Academyhills Note)
こうした指摘を踏まえて考えると、現代社会においては
学習のクラシック理論の方がはるかに合理的で時代にマッチした考え方だといえます。
とりわけ法制度に制約された学校教育と異なり、法的な制約のない社会人教育の分野では
学習のオフィシャル理論にいつまでも拘束されている理由はありません。
そこで、オフィシャル理論からクラシック理論へと考え方を切り替える努力を開始する必要があります。
では、学習のクラシック理論の中身をさらに見ていきましょう。
クラシック理論とは「人は強い興味と豊富な経験を持てば持つほど、よく学習できるようになる」という考え方です。
クラシック理論によれば、ある人が学習を進めるためには何よりもまず興味を持てる対象を自分で選び、
そのことについて豊富な経験を持っている人々の仲間になったり、経験を積める環境に入ることが重要だということになります。
なお、仲間になる「人々」というのは身近にいる生身の人間だけでなく本や教材の著者なども含まれます。
ですから、興味のある本を読み進めたりビデオを見たりすることでも人は学ぶことが可能です。
このようにして、狩りの仕方から道具の作り方まで、知識や技能は仲間や環境から必要に応じて学ばれてきました。
学習はまず学習者自身の感じる興味によって開始され、探索的な行動によって実現されていました。
学習者は主体的に何を学ぶかを自分で判断し、
感じた疑問を解消するために人や事物に働きかけて何か新しい知見や技能を習得していったのです。
こうした学習活動の在り方を一言で表現するならば学習とは人が置かれた
環境の中で道を切り開いていく「適応行動」そのものということができます。
もちろん、その人の置かれた社会環境によってすぐれた知見や技能を習得しやすい場合もあれば、
それが難しい場合もあったでしょうが、いずれにしても学習は外部から強制的に押し付けられるものではなく、
あくまで主体的な適応行動として行われていたという点が重要です。
学習に苦手意識を持っているならば、一度立ち止まって、
「人は強い興味と豊富な経験を持てば持つほど、よく学習できるようになる」
という言葉の意味を自分に当てはめて考えてみるとよいと思います。
他のITパスポートの記事も見る |